ワイングラスを持つ手を見せた1X それでも人型ロボットがまだ職場に入れない理由
「ワイングラスを持ち上げる。電球を交換する。それができるロボットは一つも存在しない」。ロボット工学の権威、米カリフォルニア大学バークレー校のKen Goldberg教授は2025年8月、こう断言した。歩けるロボットは増えた。だが人間なら考えもせずにできるこの二つの動作が、ロボットにはいまだにできない。同氏はこの器用さの欠如を、ヒューマノイドに残された最大の壁だと指摘した。
その11か月後の2026年7月9日、米ロボット企業1Xが人型ロボットNEOの新型の手を発表した。デモ映像には、ワイングラスをつかみ、電球を取り付けるNEOの姿があった。
ロボットの手は「書き込み専用」だった
1Xの本社は米カリフォルニア州パロアルトにあるが、生まれはノルウェーだ。発表された新型の手は、片手に25の自由度を持つ。自由度とは、関節がそれぞれ別々に動かせる方向の数を指す。指と手のひらに22、手首に3という配分だ。人間の手はおよそ27とされるから、数字の上ではかなり近い。
だが、今回の発表で注目すべき点は、自由度の数ではない。1Xは発表文でこう書いている。「ほとんどのロボットハンドは『書き込み専用』のデバイスだ」。位置を指令すれば、手はそこへ動く。しかし、指先で何が起きているかという情報は返ってこない。つまり従来のロボットの手は、動かせるが、感じることのできない器官だった。
1Xによれば、原因は減速機にある。一般的なロボットハンドは、モーターの回転を100分の1から200分の1まで落として指を動かす。この高い減速比では、指先が物に触れたときのわずかな力が、歯車の摩擦にかき消されてモーターまで届かない。だから多くのロボットは、手の外側にカメラやセンサを取り付けて、指先の状況を間接的に推測してきた。
1Xの新型ハンドは、減速比を5分の1から15分の1程度まで下げた。これにより、力が双方向に伝わるようになる。モーターの力は指先へ流れ、指先が受けた力はモーターまで戻ってくる。指を押せば素直に曲がり、どれだけ押されたかを検出できる。1Xはこの性質を「力の透過性」と呼び、25の関節すべてがこの方式で動くとしている。加えて指先の触覚センサは、押される力だけでなく、接触位置と横滑りの力まで測る。グラスが手の中で滑り始めた瞬間を検知し、落ちる前に握り直せるという説明だ。
自由度の数字だけなら、競合他社も似た水準を謳っている。1Xの製品設計責任者Dar Sleeper氏は、米Forbesの6月の取材で、他社の掲げる自由度の多くはモーターを持たない受動関節であり、「たいていは単なるバネ仕掛け」だと牽制している。
位置決め精度は±0.2ミリ。水没に耐えるIP68防水と食品衛生対応の素材を採用し、ロボットが自分の手を洗える。ただし、ここに挙げた数値はすべて1Xの自己申告であり、第三者による検証はまだ存在しない。
人間の手は、物を動かす器官であると同時に、物を知る器官でもある。1Xは発表文で、触ることを「実験」だと表現した。手は力で問いを発し、同じ関節を通じて答えを読み取る。その働きにロボットの部品がようやく追いついたと主張している点が、今回の発表の核心である。
では、なぜ手はこれほどまでに難しかったのか。挑んでいる企業は、1Xだけではない。
手はコストの2割、複雑さの5割
手の難しさは、価格の内訳に表れている。複数の調査機関の推計によれば、器用な手はヒューマノイド総コストの15〜20%を占める。米Morgan Stanleyによる米Tesla社のOptimus Gen2の分解分析では、手が占める割合は17.3%だったと報じられている。カナダのロボット企業Sanctuary AI創業者のGeordie Rose氏はさらに踏み込み、手はロボット全体の複雑さの50%を占めると述べたと伝えられる。二本の腕、二本の脚、胴体、頭。それら全部を合わせたものと、手のひら二つが釣り合うという見立てだ。実際、Tesla社は2025年にOptimusを5,000台限定生産する計画を立てたものの、手と前腕の製造の困難を理由に延期を繰り返したとされる。
研究者の側からは、もっと根本的な批判も出ていた。ロボット掃除機ルンバで知られる米iRobotの共同創業者で、米MIT名誉教授のRodney Brooks氏は2025年9月、「今日のヒューマノイドは器用さを学べない」と題した論考を発表した。Tesla社や米Figure社のように人間の作業動画を大量に学習させる方式では、器用さは獲得できないという主張だ。理由は明快で、動画には触った感覚が写っていないからである。「視覚データだけを集めても、正しいデータを集めたことにはならない」とBrooks氏は書いた。
この批判を今回の発表と突き合わせると、1Xが何を解決しようとしているのかが見えてくる。1Xの新型ハンドに搭載されたのは、全関節の力覚と、横滑りまで測る触覚。Brooks氏が欠けていると指摘した、まさにその部品である。もっとも、部品が載ったことと、そのデータで本当に学習できることは別問題であり、Brooks氏の問いへの答えはまだ出ていない。
そして2026年、競争の語られ方が変わり始めた。Tesla社のGen3ハンドは22自由度の腱駆動で、今夏の量産開始を予定する。Figure社のFigure 03は24を超える自由度を持つとされる。Unitree社は20自由度で、最大94個の触覚センサを搭載できる五指ハンド「Dex5-1」を、単体製品として既に市販している。各社が性能の数字を競う中、業界メディアのHumanoid Guideは、2026年の手の競争で最も注目すべき数字は、器用さの記録ではなく生産数だと指摘する。中国AGILINK社はすでに8,000個を出荷したと謳い、1Xは数百個をすでに生産済みで、年1万個の内製能力を持つと発表した。同メディアによれば、手はヒューマノイドで最も壊れやすく、最も高価な部品であり、だからこそ最初に量産化した企業が業界の基準を決めるという。1Xの発表の本当の勝負所は、デモ動画ではなく年1万個の生産ラインの方にある。
では、この手があれば仕事はできるのか。その問いに答えようとしたとき、発表文の奇妙な沈黙に突き当たる。
発表文に書かれていない三つのこと
1Xの発表文を最初から最後まで読むと、書かれていないことが三つあると気づく。
第一に、デモの動きが自律によるものだったのかどうか。電球を取り付け、ワイングラスをつかんだあの動きは、ロボットのAIが自分で判断したものなのか。人間が遠隔操作したのか。それとも、あらかじめ記録した動作の再生なのか。発表文はどれとも書いていない。第二に、成功率。何回試して、何回成功したのか。その記載がない。第三に、職場での実証データ。作業の成功率も、処理速度も、稼働時間も、発表文には一つも載っていない。
この沈黙には前例がある。2025年10月、1XがNEOの発売を発表した際、米Wall Street Journal記者が体験した実機デモでは、複雑な作業のすべてが「Expert Mode」、つまり1Xのオペレーターによる遠隔操作で行われ、論争になった。1Xは「隣の部屋から人間が遠隔操作するヤラセ動画」を撮り、それを企業ビジョンと呼んでいる。競合であるFigure社CEOのBrett Adcock氏は当時、そう痛烈に皮肉った。Adcock氏は遠隔操作の否定を自社の看板に掲げており、直接の競合トップの発言として割り引いて読む必要はある。それでも、1Xのデモの自律性が一度公然と疑われた事実は残る。
1X側にも言い分はある。同社は遠隔操作を隠れた欠陥ではなく、公言してきた戦略と位置づけている。大規模言語モデルの学習を人間のラベル付け作業が支えたように、人間の遠隔操作がロボットの教師データを作る、という理屈だ。実際、NEOに搭載されたAIモデル「Redwood」は1.6億パラメータの小型モデルで、ロボット本体のGPU上で動作し、成功だけでなく失敗の記録からも学習する設計だと同社は説明している。
だとしても、疑問は残る。遠隔操作をめぐる論争を一度くぐり抜けた企業が、次の大型発表で自律性への言及を丸ごと省いた。書き忘れではなく、書かないという選択だろう。海外メディアも同じ空白を指摘している。ニュースレターのAI Weeklyは、デモのどこまでが自律でどこからが遠隔操作なのか報道からは分からないと指摘した。蘭The Next Webは、次に見るべきデモは指先の曲芸ではなく、ありふれた家事を最初から最後まで自力でやり遂げる姿だと注文をつけた。
三つ目の空白である職場データには、背景がある。1Xは2025年12月、スウェーデンの投資大手EQTと提携し、2026〜2030年に最大1万台のNEOをEQT傘下の約300社へ供給する意向を発表した。対象は物流、倉庫、製造、ヘルスケア。家庭用として売り出されたNEOの、職場への進出宣言である。EQT VenturesのリードパートナーTed Persson氏は「人を置き換える話ではない。人にスーパーパワーを与える話だ」と語った。ただし提携はあくまで「意向」で、導入するかどうかは各社が個別に判断する。そしてこの発表にも、判断の根拠になる実証データは添えられていなかった。
導入を検討する企業から見れば、この三つの空白に数字で答えられない段階の製品では、現場への導入計画は立てようがない。
では、判断に足る数字はどこにも無いのか。一つだけ、存在する。
89%と12%のあいだ
米Stanford大学が2026年4月に公表した「AI Index」に、業界の実力を測った数字が掲載されている。仮想空間のシミュレーションで物の操作を試すベンチマーク「RLBench」では、最高性能の手法が89.4%の成功率に達した。2022年には約48%だったから、4年でほぼ倍増したことになる。ところが、現実に近い1,000種類の家事で試す「BEHAVIOR-1K」になると、最高のチームでも作業を最後までやり遂げられた割合は12.4%にとどまる。感電や火災といった危険要素を加えた別の試験では、最良のモデルでも安全にこなせたのは64%。報告書は「最上位のモデルですら、タスクの3分の1以上を安全にやり遂げられなかった」と記している。なお、これらは1Xの新型ハンドを評価した数字ではなく、発表より前の業界全体の水準である。シミュレーションの89%と、現実に近い家事の12%。両者の間には77ポイントの開きがある。
一方、職場での実証データとして現時点で最も具体的な数字は、1Xではなく競合のFigure社が持っている。同社は2026年5月、複数のFigure 03が交代しながら200時間連続で249,558個の荷物を仕分けたと発表した。遠隔操作なしの自律作業だったと同社は説明している。その直前に行われた10時間の人間との対決では、人間のインターンが12,924個対12,732個で勝ったものの、荷物1個あたりの差はわずか0.04秒。対決後、このインターンは左腕が壊れたようだと訴えたと伝えられる。一方のロボットは、休憩なしで動き続けた。同社CEOのAdcock氏は「人間が勝つのはこれが最後になる」と宣言した。
ただし、この作業の中身は単純だ。荷物のバーコードを見つけて、ベルトコンベアに置く。その繰り返しである。実証されたのは単純反復と耐久力であって、25の自由度を要する仕事ではない。職場で証明済みなのは「不器用でもできる仕事を、休まずやる能力」。1Xが賭けたのは「器用さ」。この二つが交わる実証、すなわち器用な手が職場で仕事をやり遂げたというデータは、世界のどこにもまだ存在しない。今回の発表はその空白を埋めたのではない。空白がどこにあるかを、かつてなく正確に示した。
1Xは発表文で、この手の目的を「ハードウェアの天井を取り払い、データだけを能力の制約にすること」だと自ら規定した。CEOのBernt Børnich氏は「これこそ業界が待ち望んでいたものだ」と宣言している。だがこの宣言は、勝利の言葉として読むべきではないだろう。ハードウェアはもう言い訳にならない、残る課題はすべて自社のAIとデータ収集が引き受ける。そう自社を追い込む、賭けの表明である。器用な手が量産される時代の競争軸は、現場のデータを集めて学習に回し、また現場に戻す循環を誰が回せるかに移っていく。
だから、次に見るべきものは新しいデモ動画ではない。EQT傘下の企業で始まるはずのパイロット導入から、最初の稼働データが出てくるかどうかだ。89%と12%のあいだの崖を、この手はどこまで登れるのか。答えは撮影スタジオではなく、倉庫の現場から届く。