フィジカルAIの鍵、世界モデルはゲームで飛躍する
著名投資家のVinod Khosla氏が8月3日、Xに短い問いを投げた。「多くの人が名前も知らないアプリにしては、これはかなりすごい。Medalとは何なのか。最良の世界モデルは何になりそうか」。

スマートフォン向けの無料アプリのランキングの3位に入ったModalは、ゲームのプレイ動画を切り出して共有できるというアプリ。ゲームの愛好家は、ゲームの中で面白い展開があれば、それを切り出してSNSなどで友人やフォロワーと共有したいもの。そのニーズに応えるアプリで、2位のインスタグラムと4位のYouTubeといった有名アプリと肩を並べるほどの人気アプリ。だがゲームをしない人の間ではほとんど無名のアプリだ。Khosla氏は、このアプリがフィジカルAIのキーテクノロジーと言われる世界モデルと大きな関係があるというのだ。一体どういう意味なのだろう。
ゲームユーザーの反応データが世界モデルを飛躍させる
世界モデルとは、現実世界の物理法則や因果関係を内部に持ち、次に何が起きるかを予測できるAIのこと。
ロボットや自動運転車などのフィジカルAIは、目の前の状況を認識するだけでは動けない。自分がある行動を取れば周囲がどう変化するかを予測し、その結果に応じて次の行動を選ぶ必要がある。世界モデルは、AIにこの「動く前に結果を先読みする力」を与えるため、フィジカルAIの鍵とされている。
世界モデルに関しては、大規模言語モデルの次に来る主戦場として、ここ一年で投資と研究が集中してきた。ただ、いつ実用の水準に届くのか、何が起きれば大きく飛躍するのかはまだ見通せていない。
Khosla氏は6月に、米メディアTechCrunchの取材に対して、ゲームにそのヒントがあるかもしれないと答えている。
同氏は、「言語モデルの領域では、リーズニングモデルが登場したときに言語モデルの性能が大きく飛躍した。世界モデルでは、AIに人間の直感に近い能力が生まれることが飛躍になると思う。ゲームの中にある人間の行動データと反応データこそが、その直観が生まれる鍵になる」と語っている。
リーズニングモデルの登場は、2024年9月。OpenAIの「o1」がリーズニング能力を搭載した最初のモデルだ。例えて言えば、それまでの言語モデルは、丸暗記した大量データの中から深く考えずに答えを出していたのに対し、「o1」からは自分の中で考えてから答えを出すようになった。言語モデルは「考える」という能力を身につけたことで、大きく飛躍した。
世界モデルにも同じような飛躍のポイントがある。そのヒントがゲーム内のユーザーの行動や反応データにある。それが同氏の読みだ。
OpenAIが5億ドルで買おうとしたゲームデータ
Khosla氏率いる米ベンチャーキャピタルのKhosla Venturesは、このMedalを開発したオランダのアプリメーカーMedal社からスピンアウトしたAI開発企業の米General Intuitionに2度出資している。
最初が2025年10月、General Intuitionがシードラウンドで総額1億3370万ドルを調達した際だ。Khosla Venturesにとって、2019年1月のOpenAIへの出資以来、最大規模のシード投資だったという。
そして今年6月25日、Khosla Ventures主導で3億2000万ドルのシリーズAを発表。評価額は23億ドルに達した。Khosla Ventures以外ではAmazon創業者のJeff Bezos氏やGoogleの元CEOのEric Schmidt氏、Google DeepMind、マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者も出資者に名を連ねている。設立からわずか8カ月での到達である。
米テックメディアThe Informationによれば、OpenAIは2024年後半に、Medalのゲーム映像データに対し5億ドルの支払いを提示したという。Medal創業者のPim de Witte氏はこれを断り、自らAI企業を立ち上げる道を選んだようだ。
なぜYouTubeではだめなのか
ゲーム映像なら、YouTubeにも無数にある。MedalのデータとYouTubeのゲーム映像は何が違うのだろうか。
まず、視点が違う。de Witte氏はシード調達時のTechCrunchの取材で、人はゲームをプレイするとき、自分の知覚を一人称視点のカメラを通じて別の環境へ移し替えていると説明した。観戦者向けの配信映像からは「世界がどう見えるか」しかわからないが、プレイヤー自身が切り出したクリップには「その主体にとって世界がどう見えていたか」が残る。
第二に、映像より重要なものが付いている。TechCrunchによれば、鍵になったのは映像ではなく、クリップに埋め込まれた行動のラベル、つまりプレイヤーがいつどのボタンを押したかの記録である。単なる映像だけでは、画面で起きた変化がプレイヤーの操作によるものなのか、それとも別の要因によるものなのかを判断しにくい。どのボタンを押した直後に何が起きたのかが記録されていれば、AIは「この操作をすると、世界がこう変化する」という因果関係を学ぶことができる。
第三に、学習に役立つ場面が自然に集まる。ユーザーがわざわざクリップとして保存するのは、飛び抜けてうまくいった場面か、派手に失敗した場面だ。成功や失敗がはっきり表れた事例を、人手をかけずに大量に集められる。
Medal側の公表によれば、利用者は月間1500万人を超え、今年だけでクリップ数は25億本を超える。良質なデータが膨大に集まる仕組みになっているわけだ。
ゲームデータが減らすロボットの学習コスト
ゲームデータで学んだ能力は、現実のロボットにそのまま応用できるわけではない。General Intuitionは、Medalのゲームデータを使って、周囲の状況を捉え、次の行動を選ぶ基礎的な能力をAIに学ばせた。そのAIを次にロボットに移し、現実の環境や機体に合わせて追加学習させる必要がある。
TechCrunchの記者がGeneral Intuitionのニューヨークオフィスを訪れた際には、四足歩行ロボットが単眼カメラで周囲を確認しながらオフィス内を歩いていたという。
その四足歩行ロボットを追加学習するのに必要だった実世界のデータは、路上で集めたわずか8分のデータだけ。ゲームで空間認識や行動選択の基礎を身につけておけば、ロボット固有の学習に必要なデータを大幅に減らせる可能性があるというわけだ。
世界モデルに賭けているのはGeneral Intuitionだけではない。スタンフォード大学のFei-Fei Li氏が率いる空間知能開発の米World Labsは、画像や文章から操作可能な3D空間をつくる技術を開発し、今年2月に10億ドルを調達した。Metaの元AI責任者Yann LeCun氏が立ち上げた世界モデル開発の仏AMI Labsも、現実世界を理解して推論や計画ができるAIを目指し、3月に10億3000万ドルを調達している。
米Forbesの集計では、世界モデルを手掛ける新興企業に今年上半期だけで30億ドルを超える資金が流れ込んだ。Khosla氏は、この市場から時価総額が数千億ドル、さらには1兆ドルに達する企業が複数生まれると予測する。ゲームの行動データ、生成した3D空間、現実世界のセンサーデータ。どのアプローチが最初に大きな飛躍を起こすのか。世界モデルは今、AIで最も注目を集める分野の一つになっている。
ゲーム大国・日本の持ち札
ゲームをAIの訓練場として使う取り組みは、日本でも早くから進められてきた。ソニーAIは、実在の車やサーキットを精密に再現したPlayStation向けレースゲーム「グランツーリスモ」を使い、AIドライバー「グランツーリスモ・ソフィー」を開発した。
ソフィーは、ゲームの中で試行錯誤を重ねる深層強化学習によって、走行技術やレース中の判断を身につけた。その結果、「グランツーリスモSPORT」の世界トップクラスのプレーヤーに勝利した。研究成果は科学誌Natureに掲載され、2023年11月には「グランツーリスモ7」に本格実装された。
物理世界での実績も積み上がっている。
ソニーAIは2026年4月23日、卓球ロボット「Ace」の研究論文が英科学誌Natureに掲載され、同号の表紙を飾ったと発表した。実世界の競技スポーツでプロ級の人間を上回った初の自律システムとされ、今年3月の追加対戦ではプロ3選手すべてに勝利した。NECは3月12日、人の動きと心理状態を予測する世界モデルでロボットを先回り制御するフィジカルAIを世界で初めて開発したと発表している。バンダイナムコ研究所は、AI研究開発用の3Dモーションデータセットを無料公開した。
ゲームという資源も、それをAIに変える技術も、日本にはすでにある。Khosla氏が投げた問いに最初に答えるのは、シリコンバレー企業とは限らない。