「小さな判断」がタダ同然になると、会社の形はどう変わるか
AIの進化で、会社の組織図が変わろうとしている。米シンギュラリティ大学の初代事務局長で、組織論の著書『Exponential Organizations』で知られる起業家のSalim Ismail氏は、AIが判断や部門間の調整までこなすようになり、従来の組織図は急速に時代遅れになりつつあると主張する。
同氏が共同ホストを務める米ポッドキャスト番組「Moonshots」で、この変化を加速させるものとして取り上げたのが、米AIスタートアップTypeSafe AIが9月に公開した「Jev」だ。文章を書かず、用意された選択肢から答えを選ぶことに特化したAIで、料金は入力100万トークンあたり0.042ドル。Ismail氏が「ほぼタダ」と呼ぶ安さだ。米OpenAIが9月29日に、米ネット基盤大手Cloudflareが10月1日に同種のモデルを相次いで発表し、「小さな判断」の値段は急速に下がり始めた。
判断がタダ同然になると、会社という組織はどう変わるのか。
会社の仕事の大半は「小さな判断」
Ismail氏は番組で「企業で下される判断の非常に多くは、System 1型だ」と指摘した。System 1とは、心理学者でノーベル経済学賞受賞者のDaniel Kahneman氏が広めた言葉で、直感で素早く下す判断を指す。時間をかけてじっくり考える「System 2」と対をなす。
問い合わせをどの部署に回すか。例外を承認するか。取引を上司に報告するか。連絡を今するか、後にするか。1件ごとの手間は小さくても、数千件、数万件と積み重なれば、企業全体では膨大な時間と人件費になる。米コンサルティング大手McKinsey & Companyの調査によると、経営幹部は勤務時間の4割近くを意思決定に費やす。平均的なFortune 500企業では、非効率な意思決定によって年間53万日分の管理職の時間、人件費にして約2億5000万ドルが失われているという。
こうした判断のすべてに高性能な生成AIを使うことを、Ismail氏は「スーパーでどのレジに並ぶかを決めるのに、最高裁判所を招集するようなものだ」と例える。高性能なAIは戦略立案のような難しい問題に回し、日常の定型的な判断は安価な判断専用AIに任せればよい。これまでこうした細かな判断は、高価な生成AIに任せるのは割に合わず、人間が一件ずつ処理するしかなかった。判断専用AIの登場で、ようやく機械に任せても採算が合うようになった。
階層は調整コストの産物
今の企業では、小さな判断一つにも多くの人が関わる。担当者が内容を読み、どの部署の案件かを見極め、必要なら上司に相談し、承認を待って別の担当者へ回す。一つ一つは数分の作業でも、そのたびに人と人の間で調整が生じる。
企業組織はこの100年近く、「人間の知能は希少で、調整にはコストがかかる」という前提の上に築かれてきた。Ismail氏が以前から唱えてきた持論だ。同氏によれば、上司と部下の階層が必要とされてきたのはこの調整コストのためで、AIはそのコストを崩しつつある。組織が人間中心の運営からAIを前提にした仕組みへ移るこの転換点を、同氏は「組織のシンギュラリティ」と呼ぶ。
判断専用AIは、この調整の連鎖を短くする。Jevは答えと一緒に、その判断にどれだけ自信があるかを示す確率を返す。自信の高い判断はソフトがそのまま処理し、自信の低いものだけを人間に回せる。Cloudflareも、判断専用モデルがあればAIエージェントが自ら情報を集めて判断し、実行に移し、必要なときだけ人間に任せる使い方ができると説明する。
判断が安くなると、判断が増える
19世紀英国の経済学者William Stanley Jevons氏は、蒸気機関の効率が上がると、石炭の消費が減るどころか増えることを指摘した。効率化がかえって消費を増やすこの現象は「Jevonsのパラドックス」と呼ばれる。Jevという名前は、このパラドックスにちなむ。TypeSafeは、AIの知能も同じ道をたどり、コストが一桁下がるたびに使い道は何桁も増えると予想する。
企業に当てはめれば、判断が安くなっても判断の数は減らない。むしろ増える。「この顧客に今メールを送るべきか」「この注文だけ配送方法を変えるべきか」。これまでは人間が一件ずつ考えるには細かすぎて、省くか一律のルールで済ませてきた判断だ。それをAIが一件ごとに下せるなら、企業は顧客一人ひとり、注文一件ごとに対応を変えられる。AIの効果は人手の置き換えにとどまらず、会社が下す判断の範囲そのものを広げる。
暗黙の基準を書き出す
ただし、判断をAIに任せるには準備がいる。米調査会社HyperFRAME ResearchでAI基盤分野の責任者を務めるStephanie Walter氏は、何を問うのか、選択肢は何か、どこまでの確信度ならソフトに任せ、どこから人間に回すのかを事前に決めておく必要があり、それ自体が大きな作業になると指摘する。これまで管理職が経験と勘で下してきた判断の基準を、言葉にして書き出す作業だ。
人間が過去に下した判断の記録も、価値を持ち始めた。Cloudflareは、長年蓄積してきた判断の記録を使って自社の判断専用モデルを鍛え直し、不正利用などの申告の審査やサポート依頼の振り分け、ボットの善し悪しの判定に使う計画だ。
機械に任せられない判断
機械に任せられるのは、答えの選択肢があらかじめ決まった、比較的単純な判断だ。米企業向けAI検索のGleanが自社の業務でJevを試したところ、問い合わせを三つの専門モデルのどれに回すかを決める判断では、既存の生成AIより正確で、処理速度もおよそ8倍だった。一方、数十件の検索結果を細かく比べて順位を付ける判断では、既存の仕組みに及ばなかった。初期の検証論文28本を調べた論文も、難しい課題では精度で見劣りすると結論づけている。
説明責任も人間に残る。AIエージェント開発会社の共同創業者Paul Chada氏は「確率は判断の確信度を示すが、なぜその判断をしたのかは説明しない」と指摘する。規制当局や監査人に自動判断の理由を説明しなければならない企業では、この点が問題になりうるという。
問われるのは判断の「基準」
小さな判断はソフトが下し、人間に回ってくるのはAIが自信を持てない例外だけになる。そうなれば、上司への相談や承認待ちの多くは要らなくなる。階層は調整のコストを抑えるためにあったというIsmail氏の見立てが正しければ、組織の階層も少なくて済むようになる。一方で、会社が下す判断の数は増え、その基準を決め、結果に責任を負う仕事が人間に残る。
判断の値段が下がった企業で問われるのは、誰が判断するかではなく、何を基準に判断させるかだ。